金魚の話を書いた時期から約1ヶ月が経過した。ポリバケツに植えている睡蓮の葉が茂り、金魚の姿が見えなくなった。まだ色が付かないので黒いフナと同じである。夜遅く、懐中電灯を持ち、睡蓮の葉をかき分けて観察するが、なかなか見つからない。時に姿を見せる金魚から推察すると大きいものが1.5cm、小さいものはその半分位である。育ち方に差がつき始めており、数も激減しているように見える。どうやら流されているだけではなさそうだ。

 野性的な金魚は目に付きにくいので、考えているよりも生存数は多いのかも知れないが、定かではない。夜に見るのは、懐中電灯の光に照らされて見えやすいからだが、もう一つ大きな理由がある。それは、彼らが夜寝ており、睡蓮の葉を動かせば水面近くにいたものが見えるからである。なかなか目を覚まさない強者もいるが、びっくりして逃げるものも多く、その様子がまたおもしろい。金魚には大きな迷惑であるが、人間にとっては毎夜寝る前のひそかな楽しみとなっているのである。

 魚類というものは集魚灯の光に引き寄せられると言うが、ドラム缶の金魚は必ず逃げる。また、ポリバケツではほんの一部の金魚が光に寄ってくるが、基本的には逃げる方が多い。自然界の広い水面と、『井の中の蛙』ではないが、狭い世界とでは反応が違うのかも知れない。それでも、この狭い世界が彼らの生きる環境であり全てである。彼らはその中で、精一杯生きる。

 考えてみれば、我々人間も似たようなものではないのか…。広い世界を知っているつもりになっているが、実際には、“狭い発想と世界観”を大事に大事に持ち続けているのかも知れないのだ。ただ、それでは哀しいので、(住んでいる世界がどんなに小さくとも)大哲人の脳は“全宇宙”を飲み込む事が出来るという事も言っておきたい。

                        平成17年6月28日 中村 雄兒
<千鉱エンジニアリング(株)HOMEへ>